『陽炎座』感想

 

11/18(土)にシネ・リーブル梅田へ『陽炎座』を観に行った。
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暗殺の森』を観に行ったときに流れた予告編の芝居小屋が崩れるシーンが印象的だったからだ。
薄々予想していたが、話として面白かったかどうかを言えばそんなに面白かったわけではない。しかし、映像は綺麗だったし、「こういう表現もあるんだなあ」という面白さはあったので、話の内容だけで、わかるとかわからないとかで映画を評価するのは良くないよな、と思った。
「何やっとんねんこれ」みたいな瞬間がなかったと言えば嘘になるが、観てよかったな、とは思う。

 

面白かったところ


松田優作の演技
品子との初めての夜に、二人で体を少し無理のある形で組み合わせていたのが面白かった。
冷静になったら馬鹿みたいなシーンだが、春画的表現を現実にやるとこうなるんだという面白さがあった。静止画で見たら、美しいと素直に思ったかもしれない。
また、金沢の宿でいねの部屋に引き込まれる時の動きも上手いなと思った。不思議な力によって動かされていることがよくわかった。


・表現
品子が墓からお見舞いの花を摘んだと語るのと同じショットで、松崎が品子との初めての出会いを語っているのが、異時同図法のようで面白いなと思った。他のシーンでも人物同士が重ならないように斜めに座って変な方向を向いて話していたり、一枚の絵として観ても綺麗な構図で撮られているんだな、と思った。


・美術
月岡芳年や絵金っぽい日本画がたくさん登場して、不気味で幻想的な雰囲気を醸し出していたのが良かった。
不気味と言えば、ところどころに使われていた朱色もそうだ。僕は朱色を見ると、物凄く怖くなるのだが、あれはなぜなんだろう。神社を連想して、畏怖の念を抱いてしまうからだろうか。
アニメ『化物語』や劇場版『傷物語』でも朱色が用いられており、日本的な怖さを感じたことをずっと覚えている。

 

わからなかったところ


内藤剛志どこに出てた?


・松崎が金沢で出会った男が、畑の横にいた乞食に突然小便をひっかけたのはなぜなのか。深く考えるものでもないのかもしれないが。


・松崎が線路の上を、腿を高く上げながら走って往復していたシーンは何なのか。

 

男女の現実と幻想


「裏側」だったか、「裏面」だったか、言葉は忘れたが、裏を覗くという動作や言葉に意味が込められていたような気がする。
特にそれが不自然なほどあからさまに行われていたのが、人形を下から覗き込む行為である。
松崎が金沢で宿に泊まった夜に、金沢で知り合った男に連れられて、土か陶器でできた色々な種類の人形を使った儀式のようなものを見物するシーンがあった。そこには、人形の底に空いた穴から中を覗き込み、見終わった人形は酒を吹きかけて地面に叩きつけて土に返す、というしきたりがあった。
人形の中には、男女の性器や性行為の様子を象ったような小さな人形がある。
人形は、一体一体が個人の何かを表しているらしく、「それは私の」などと言うセリフもあり、それを見た松崎は、「これは~ですな」とちょっとした感想を述べるのである。

 

おそらくこれは女性との愛の記憶、特に交わった記憶なのではないか、と観ているうちに思った。
裏を覗いた後、つまり、関係した後には叩き割って壊してしまうという行為は、松崎のパトロンである玉脇の行為と重なる。ドイツ留学中にイレーネと出会って日本に連れ帰るが、日本人の黒髪黒目の姿と「いね」という名前を与えて、彼女に金髪碧眼の姿という裏側を作り出し、本来の姿が月の光によって明らかになる夜だけ抱いて、それ以外は放っておく。お手伝いにも手を出すし、いねが病死すると、さっさとキャバレーの女をひっかけるのだ。
また、品子に対する扱いもなかなか酷い。後妻になるよう強要までした品子が、あてつけに松崎と不倫をすると、嬉々として二人に心中しろと迫る。それは、鳥撃ちを趣味とながらも本心では「人間を撃ちたい」玉脇にとって、人の死という性行為とは別種の人間の本質に迫る瞬間が見られるチャンスだからだろう。
つまり、人形の裏を覗きこむことが表す、男が女と交わることは、すなわちその女の裏側を知ることであり、それを知れば女は無価値になる、ということを意味するのではないか、と思った。

 

また、女性がどう扱われるかということについて、おそらく鳥で喩えられているシーンもあった。
松崎の下宿先の、もともと玉脇のお手伝いであった鳥屋の女が、鳥が死んだときに「鳥屋をやめようかしら。売った先でもすぐ死んじゃうし」というようなことを言うシーンがある。なぜすぐ死んでしまうのかと言えば、これは推測であるが、きちんと世話をされないからだろう。
美しい鳥を手に入れたとき、店で見ているときに感じていた欲望が鳥に与える価値は失われる。その価値は「自分より先に他の人間がこれを手に入れるかもしれない」という危機感、つまり想像上の他者の欲望に支えられている部分があるからだ。
イレーネが高級娼婦であったというセリフから考えるに、鳥屋の鳥は、遊郭の女を表すのだろう。

 

松崎は玉脇とは違った。物語の序盤で品子と関係を結んでも、なお彼女を愛し続ける。
陽炎座でいねと品子の物語が演じられているとき、玉脇に「筋を書いたのは君じゃないかね」(?)と問われた松崎は、「こんなリアリズムはやりませんよ」(?)と答える。つまり、彼からすれば、自分が生きているのは理想、あるいは幻想の中であり、このようなドロドロとした愛憎劇の現実には生きていない、ということだろう。
芝居による物語の種明かしが終わり、品子が自殺の決意を固めて幕の裏へ消えてしまうと、陽炎座は崩壊する。品子は大きな桶の中の水に浸かり自殺する。松崎も後を追う。
結局、心中をしたのは品子と玉脇であった、正直、ここはよくわからない。いねが仕組んだのだろうか。品子はいねになんとなく哀れみを感じているような様子だったので、もしかすると、いねが品子に乗り移って、恨みのある玉脇をあの世へ連れて行ったのかもしれない。
ラストシーンで、東京へと戻った松崎は、死んだはずの品子を探す。祭囃子を頼りに歩くと、不思議な部屋の中に品子を見つける。すると、松崎は二人に分かれ、片方が品子の元へ行き、背中合わせで座って映画は終わる。これは、現実を生きる松崎から分かれた夢を生きる松崎が、品子とともに生きていくのだ、というようなことだろうな、と思った。

 

映画に関係があるといえばあるかもしれないし、ないといえばないかもしれない感想


僕は性的なものを醜いもの、汚いもの、表に出すべきではないものだと思って生きてきた。それゆえに、他人からそうした感情が発されると嫌悪感を覚えてしまう。
猥談の類も自分からしたことはない。
覚えている限りでは、中学の修学旅行の夜に同室の人間に話を振られたことがあったが、その時も冗談を言って笑いに逃げた。
そういう風に生きてきたので、自然と周囲にいる人間も性的な感情を表に出さないタイプの人間ばかりになっている。恋愛がどうこうという話もほとんど聞いたことがない。
性的な感情を持つこと、ではなく、表に出すこと、見えることに強い嫌悪感があるのだ。
持つことにも罪悪感のようなものはあるが。

 

なぜこのような人間になったのか、原因はなんとなく想像がつく。
まずは教育による刷り込みだろう。
これに対してどのように反応したかで、その後の人格の方向性がある程度決まる気がする。
「性的なものはいけないものなんだ」と受け止めた場合、禁欲的な態度を身につけ始め、享楽的な態度の人間とは距離を置き始める。
禁欲的な人間は勉強文化と親和性が高い。いや、逆かもしれない。勉強文化になじんでいる人間が禁欲的になるのか。どちらにせよ相関はあると思う。
性的なものが快楽という即自的な報酬を与えるのに対して、勉強はそうではない。欲望を制御し、努力を積み重ね、様々なコストを勉強に振り分けてやっと何らかの報酬が得られるからだ。
そうなると、性的なものに対する態度によって、社会的な位置が分かれていくことになる。そして、禁欲的態度を持つ人間は、自身の優位性を示すべく、享楽的態度の人間が持つ価値観や生活様式に否定的になる。例えば、肉体的なものは精神的なものより劣っていると考える、などだ。
穴だらけの理屈かもしれないが、おおよそこのようなことはしばしば見られるのではないだろうか。

 

話を映画に戻すと、僕は玉脇にかなり嫌悪感を覚えた。
どうやら彼にとって、人間の裏側というものは、肉体的に交わればすべて見えるものらしいからだ。
作中の時代を考えれば、権力者の男性が女性を中身のない存在だと考えてもおかしくはない。
しかし、人間は動物であって動物ではないのだから、それまでの人生で培われた思考や価値観など、もっと豊かで興味深いものを持っているではないか、もし持っていなくとも、関係を結んでからいくらでも育めるものなのではないか、と思った。こいつは劇作家のパトロンをやっているくせに、何もわかっていないな、とも思った。
「女は弱いものじゃございません」みたいなセリフがあったが、僕は「人間はそんなに動物じゃございません」と言いたい。

 

しかし、僕には僕で問題がある。
人間が動物でもあるならば、本能的な部分も重要な意味や価値を持つはずだが、僕はそれを認められていない。
僕はその「裏側」を覗いておらず、すでに自分が経験している人間関係からの類推と、創作物などで得た知識のみで物事を語っているわけだから、玉脇のような人間への僕の批判は、食べたこともない異国のお菓子の味を原材料から想像して品評するくらい説得力がない。
やはり、精神的なものは肉体的なものより優れているという考え方は捨てるべきではないか、という気がしている。いや、そもそも精神的なものと肉体的なものとが分けられるというのも間違いなのではないか。

 

今の僕は、芸術というフィルターを通してやっと、他者の性的な感情に対して肯定的な評価ができるが、いずれは生身の人間のそれを認めなくてはならないのだろう。少なくとも否定してはならない、ということを、この作品を観て考えた。

 

映画とはあんまり関係なかったか。