気がついたら「社会人」になって半年近く経っていた。

気がついたら「社会人」になって半年近く経っていた。

とりあえず内定をくれた会社に入ったが、今のところ、運よく当たりの会社に拾ってもらったな、と思えている。

就職活動を始めた頃は全く意識していない業界だったものの、僕が文学部で一応専攻していた(?)社会学と分野的に遠くはないので、仕事の内容は興味深く感じるし、身に着けられるスキルもそれなりにある。リモートワーク多めで働きやすく、先輩社員、上司には穏やかな人が多いので、心理的安全性もそれなりに高い。

入社して少し驚いたのだが、20代後半で結婚する先輩が多い。晩婚化が進んでいると聞くが、「まともな」人たちは結婚しているのだな、と思った。社内で僕が一番人格的に問題があるかもしれない。アラサーになったときに居心地の悪さを感じそうで少し怖い。

 

 

今はまだ勉強に近いことをしているだけなので、「社会人」という自覚はない。(そもそも「社会人」ってなんだ? 言葉のわりに実際に意味する範囲が狭くないか? 「民間企業の社員」くらいしか含んでないやろ。)自覚が生まれるのは、一人で完璧に仕事を回せるようになってからだろうから、あと2年くらいかかりそうだ。

現状、平日にパソコンを一日カチャカチャいじっていたら、毎月決まった日にお金が振り込まれているという感じで、これといった手ごたえはない。ごっこ遊びをしているような感覚だ。

 

 

東京は人が多いし、ビルだらけで息苦しいし、家賃も高いので埼玉県某所に住むことにした。

研修期間中、某山手線の駅の近くにあるマンスリーマンションに住んでいたのだが、とても住めないと思った。

東京はどこまでも街に終わりがないので、頭がおかしくなりそうだ(東京出身の人には申し訳ないが)。地元は北に山、南に海があったし、京都も山に囲まれていたので、どこか街には縁や外側というものがあった。苦しくなったらそこに行って、自分の生活の場を見下ろすことで気を紛らわせたが、東京ではそうはいかない。都庁や東京タワーなどに上ったところで、ただただ無数のビルが見渡す限り広がっていて、うようよと気持ちの悪い生き物に囲まれていることを認識させられるだけだ。東京育ちの人は慣れているのだろうが、田舎者の僕にはしんどいので、生活や暮らしの匂いが少しでも感じられる場所に住もうと思い、ここを選んだ。

 

 

とはいえ、休日は毎週のように都内に出かけて、美術館に行ったり、散歩をしたりしている。住みたいとは微塵も思わないが、東京は遊びに困らない街ではある。なんといっても美術展の充実度は関西の比ではない。日本画も西洋画も素晴らしいコレクションを持った美術館がたくさんあって、あれもこれも行きたいなと思っていると、お金がどんどん飛んで行ってしまう。今月もアーティゾン美術館と東京都庭園美術館に行った。

美術館だけでなく、映画館やら劇場やら、他のマイナーな趣味でも何かしら楽しめる場所があるので、10年くらいは飽きることなく消費者をやっていられるかもしれない。

 

 

平日はだらだらと会社員ごっこをして、休日は一人で街に出かける生活を続けているわけだが、こうした変化のない生活を続けているうちに、少しの間眠っていた生きることに対する虚しさが起き上がってきた。

中学時代からずっと生きるのが面倒くさい。人生は暇つぶしに過ぎないと思っている。何もかもさっさと終わらないかな、と思いながら毎晩眠りにつく。特に辛いことはないが、人生に何の意味も見いだせない。よく「人生に意味はない。だからこそ好きに生きればいい」みたいなことを言っている人を見るが、好きに生きたとて、それにも意味はない。死んだらすべては無になって、人生を振り返ることもないのだから、いつ死のうが同じことではないのか、と、イタい中学生みたいなことを考え続けている。

こんなことを言っていると「それなら、さっさと自殺しろよ」みたいなことを言う人間がいるが、自殺する度胸はない。結果としての死は怖くなくても、過程としての死は怖いからだ。失敗すればもっと面倒なことになる可能性もあるので、頭に小さい隕石が落ちてきて気がつかないうちに死ねることを望みながら、ぼんやり生きるしかない。

いや、辛いことはない、と言ったが、もしかしたら嘘かもしれない。世の中には不幸が満ち溢れているような気がするし、自分が何かを手に入れたとしても、すぐに失ってしまいそうな気がする。常に不安に囚われている。失うくらいなら初めからいらない。

昔から完璧主義、減点方式で物事を考える癖があって、幸福よりも不幸が、成功よりも失敗が目についてしまう。少しでも問題があれば、それが頭から離れなくなる。

物凄くどうでもいい話に逸れるが、こういう0-100思考の人間が反出生主義や、その他極端な思想にハマるのではないか。世の中の思想や主義と呼ばれるものは、実際のところ、もっと動物的な、認知構造によって形成されているもので、正しい/正しくないではなく、合う/合わないの問題でしかないのでは、みたいな妄想をしている。どうでもいいけれど。

 

 

大学時代は、この悩みをどうにかしようと、本を読んだり、散歩をしたりしながら延々考えていた。あらゆる問題には本質的な解決というものがあって、それをしなければ先に進めないと思っていた。しかし最近では、本当に悩みについて考えることが本質的な解決になるのか、そもそも「本質的な解決」というものが何なのかもわからずに、質の低い思考でも積み上げていけば何とかなる、と思い込んでいただけな気がしている。実は、考え続けたところで先に道はなくて、必死に目をそらしつつ、違うことをやり続けているときになんとなく答えが見つかるという可能性もある。

もうあれこれ考えるのも面倒になってきたので、とりあえず、しばらくは物欲を燃料にして生きることにした。例えば、今、僕はカメラが欲しいことになっている。ヨドバシに寄ったときに、NikonのZ fcを見て、「欲しいなー、欲しいなー」と自己暗示をかけている。他にはクロスバイク。どちらもそれなりの金額なので、手に入るまでには時間がかかる。その間はモチベーションになってくれるはずだ。一度、いけるところまで物質主義に走ってみるのもありかもしれない。

 

 

ところで、最近、絵画教室に通い始めた。月2回。通い始めたのは、先ほどからだらだら語っている虚しさが、趣味である美術鑑賞にも侵食してきたからだった。美しい作品を見ても、一瞬心が動いた後で、スーッと冷めていく。趣味だなんだと言っても、所詮は消費に過ぎず、この作品を観るのが僕である必要はどこにもない。うまく言葉にできないが、そんな疎外感のようなものを覚えて、目の前にある絵が遠く感じられるようになってしまった。

美術館に飾られている絵と、気持ちの上では対等にならなければならない。ただ見るだけ、消費するだけでは、何の関係も結ぶことはできない。厳しすぎるかもしれないが、そのように考えて、下手でもいいから絵を描けるようになろうと思った。

8月初旬、無料体験に行った。白いティーポットとレモンのデッサンをした。絵を描くのは高校一年生の時の美術の授業以来だったが、自分でも少し驚くくらい集中できた。物の形、陰影、質感をあれほど意識した経験はこれまでほとんどなかった気がする。2時間近く、できる限り現実を紙の上に再現しようと、目が乾きそうになるまでモチーフを観察して鉛筆を動かし続けた。描き終えた後で、久しぶりに得た充実感に思わず口元が緩んだ。

帰りの電車でも余韻が残っていたので、絵について考えていた。やはり、これまでの自分の「美術鑑賞」は単なる消費だったのだ。美しいものをとにかく目から取り込み、脳を麻痺させて、現実から逃げていただけだった。どうりで美術館に行く回数が増えたわけだ。過剰な飲酒や喫煙、大麻の使用などと、やっていることは同じではないか。

消費をすれば刺激を得られる、しかし、いずれ虚しさを消せなくなってくるかもしれない。もしかすると、虚しさに対処する方法は、何かを生み出し、それによって人生における主体性を獲得することなのではないか。何かを生み出すためには、まず向き合うことから始めなければならない。こんなことは、すでにどこかで読んだ気もするが、馬鹿なので実感しなければわからなかった。「消費とは逃避であり、生み出すこととは向き合うことである」という、うまいことを言っている風の凄く浅いフレーズが浮かんで、気持ちの悪い笑みが浮かんだ。マスクをしていなければ危なかった。

思えば、これまでの自分の人生に主体性や意志のようなものはなかったかもしれない。会社の同期には、課外活動で結果を残してきた人たちがいて、凄いなと思う。僕は一応勉強は少ししたが、それは学校という、人間が一番初めに放り込まれる社会に存在していた「勉強ができることは偉いこと」という評価基準をそのまま受け入れただけのことだし、教師がよく言っていた「勉強しとけば、選択肢が増える」という言葉を鵜呑みにしただけのことだった。選択肢を増やすだけ増やして選ぶことをしなかった。その結果が今である。

現実に対処するだけ、適応するだけではだめで、この世で最も操作可能な存在である自分を動かし、世界に働きかける感覚を少しずつ掴んでいかなければならない。その点では、現実をある意味ゆがめたり、変化させたりする面のある美術に取り組んでみるのは良いことかもしれない。

デッサンで物を観察する訓練を積んだら、油絵に挑戦してみたいと思っている。シスレーピサロのような風景画を描いてみたい。あるいは、大原美術館で見たセガンティーニの作品のような、まぶしさを感じるほど、光を放つ絵を。日本画も面白そうだが、まずは油絵で足し算的な絵を学ばないと、引き算的な絵は描けない気がする。素人考えだが。身の回りに溢れている光をもっととらえられるようになりたい。

 

 

くだらなくて気持ちの悪い文章を書いているうちに、日曜日がもうすぐ終わる。今週は内定式がある。時間が過ぎるのはあっという間だ。しかし、流されて進むのと、歩いて進むのとでは大きく違う。半年後、少しはましな生活ができていればいいが、どうなっているだろうか。

観た映画の記録(2023年12月~2024年1月)

卒論のせいで全然観てないし、映画館にも行けなかった。

 

ブレード・ランナー ファイナル・カット』

アメリ

仁義なき戦い

仁義なき戦い 広島死闘篇』

仁義なき戦い 代理戦争』

仁義なき戦い 頂上作戦』

仁義なき戦い 完結篇』

プライベート・ライアン

ダンケルク

ドラゴン・タトゥーの女

レ・ミゼラブル

 

 

ダンケルク』『レ・ミゼラブル』以外は面白いと思った。

レ・ミゼラブル』は原作を読もうと思う。

観た映画の記録と感想(2023年11月)

コードネーム U.N.C.L.E.


CIAとKGBが手を組み、二人の凸凹スパイコンビが犯罪組織の企みを阻止するという話。特に感想はない。普通に面白いが、別に観る必要もないなという映画だと思った。
迫力を出すためにCGを使うと、かえって嘘くさく、安っぽく見えてしまうのだなと思った。

 

暗殺の森

 

bonyo.hateblo.jp

 

グッドフェローズ


ヘンリー・ヒルという男がギャングとして成り上がり、破滅するまでを描いた映画。実話に基づいているらしい。クライマックスの、ヘリに尾行され続ける一日は面白かった。
ギャングになると色々な特権が手に入るのだろうが、ヘンリーはずっと無理しているように見えた。笑っていても心から楽しそうには見えなかった。証人保護プログラムでヘンリーは「つまらない」人生を送ることになってしまったが、いつ死ぬか、いつ捕まるかもわからない人生よりはずっと幸せなんじゃないかなと思った。血筋のせいで幹部には永遠になれないわけだし。
ジョジョの元ネタらしきセリフ、シーンが出てくるのも面白かった。「大統領よりもギャングに憧れた」は5部のジョルノの「セリエAのスター選手にあこがれるよりも……『ギャング・スター』にあこがれるようになったのだ!」の元ネタだろうし、ヘンリーの妻のカレンがヘンリーに惚れるときに、「普通の女なら……」と言っていたのは、4部で吉良吉影が大家から金を盗んだときに、川尻しのぶが惚れるシーンの元ネタではないか、と思った。

 

ディパーテッド


犯罪組織に潜入した捜査官と、警察に潜り込んだ犯罪組織のネズミがお互いの正体を突き止めようとする話。かなり面白い。
レオナルド・ディカプリオが出ている映画は面白い。全然映画は観てないけど、『タイタニック』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『シャッターアイランド』『インセプション』など、どれも好きな映画ばかりだ。特に苦しんでいる演技が上手いと思う。
この映画は『インファナル・アフェア 無間道』のリメイクらしいが、より名誉や罪、因果応報などに重きを置いて作られていたような気がする。

 

インファナル・アフェア 無間道』


原作なので比較のために観た。ストーリーはだいたい同じ。こちらのほうがよりダークで緊迫感がある気がする。『ディパーテッド』の犯罪組織のボスのコステロは狂っている感じの怖さがあったが、こちらのボスのサムは普通に犯罪組織のボスらしいずるがしこそうな感じがあった。わくわくするのは『ディパーテッド』のほうだが、映像の雰囲気はこちらのほうが好きだ。
ヤン役のトニー・レオンが色気があってかっこよすぎて、こうなりたいなと思いました()

 

陽炎座

 

 

bonyo.hateblo.jp

 

 

ブラック・レイン

アウトローニューヨーク市警の刑事と大阪府警の刑事がヤクザを追う映画。
陽炎座を観て、「松田優作が出ている映画を他に観たことがないな」と思い、観てみた。
まあまあの面白さ。
Creepy Nutsの「助演男優賞」という曲に「蕎麦屋のカツ丼 牛丼屋のカレー またはバナナワニ園レッサーパンダ ダークナイトで言えばジョーカー ブラックレイン松田優作 ロックフェスでのCreepy Nuts 時として主役を喰っちまう」という歌詞があったので、どんなもんかと期待して観たが、正直そこまで松田優作演じる佐藤に魅力を感じなかった。指を詰めるシーンの気迫や、バイクでチャーリーを襲うシーンなどは怖くて良かったが、マサ(高倉健)のほうが魅力的だった。
あとは、ところどころ大阪の描写が嘘くさかったり、日本語のアナウンスがおかしかったりするのは気になった。映像はかっこいい。
……なんであんなに蒸気みたいなのが街中から出てるんだ。

『陽炎座』感想

 

11/18(土)にシネ・リーブル梅田へ『陽炎座』を観に行った。
https://littlemore.co.jp/seijun4k/
暗殺の森』を観に行ったときに流れた予告編の芝居小屋が崩れるシーンが印象的だったからだ。
薄々予想していたが、話として面白かったかどうかを言えばそんなに面白かったわけではない。しかし、映像は綺麗だったし、「こういう表現もあるんだなあ」という面白さはあったので、話の内容だけで、わかるとかわからないとかで映画を評価するのは良くないよな、と思った。
「何やっとんねんこれ」みたいな瞬間がなかったと言えば嘘になるが、観てよかったな、とは思う。

 

面白かったところ


松田優作の演技
品子との初めての夜に、二人で体を少し無理のある形で組み合わせていたのが面白かった。
冷静になったら馬鹿みたいなシーンだが、春画的表現を現実にやるとこうなるんだという面白さがあった。静止画で見たら、美しいと素直に思ったかもしれない。
また、金沢の宿でいねの部屋に引き込まれる時の動きも上手いなと思った。不思議な力によって動かされていることがよくわかった。


・表現
品子が墓からお見舞いの花を摘んだと語るのと同じショットで、松崎が品子との初めての出会いを語っているのが、異時同図法のようで面白いなと思った。他のシーンでも人物同士が重ならないように斜めに座って変な方向を向いて話していたり、一枚の絵として観ても綺麗な構図で撮られているんだな、と思った。


・美術
月岡芳年や絵金っぽい日本画がたくさん登場して、不気味で幻想的な雰囲気を醸し出していたのが良かった。
不気味と言えば、ところどころに使われていた朱色もそうだ。僕は朱色を見ると、物凄く怖くなるのだが、あれはなぜなんだろう。神社を連想して、畏怖の念を抱いてしまうからだろうか。
アニメ『化物語』や劇場版『傷物語』でも朱色が用いられており、日本的な怖さを感じたことをずっと覚えている。

 

わからなかったところ


内藤剛志どこに出てた?


・松崎が金沢で出会った男が、畑の横にいた乞食に突然小便をひっかけたのはなぜなのか。深く考えるものでもないのかもしれないが。


・松崎が線路の上を、腿を高く上げながら走って往復していたシーンは何なのか。

 

男女の現実と幻想


「裏側」だったか、「裏面」だったか、言葉は忘れたが、裏を覗くという動作や言葉に意味が込められていたような気がする。
特にそれが不自然なほどあからさまに行われていたのが、人形を下から覗き込む行為である。
松崎が金沢で宿に泊まった夜に、金沢で知り合った男に連れられて、土か陶器でできた色々な種類の人形を使った儀式のようなものを見物するシーンがあった。そこには、人形の底に空いた穴から中を覗き込み、見終わった人形は酒を吹きかけて地面に叩きつけて土に返す、というしきたりがあった。
人形の中には、男女の性器や性行為の様子を象ったような小さな人形がある。
人形は、一体一体が個人の何かを表しているらしく、「それは私の」などと言うセリフもあり、それを見た松崎は、「これは~ですな」とちょっとした感想を述べるのである。

 

おそらくこれは女性との愛の記憶、特に交わった記憶なのではないか、と観ているうちに思った。
裏を覗いた後、つまり、関係した後には叩き割って壊してしまうという行為は、松崎のパトロンである玉脇の行為と重なる。ドイツ留学中にイレーネと出会って日本に連れ帰るが、日本人の黒髪黒目の姿と「いね」という名前を与えて、彼女に金髪碧眼の姿という裏側を作り出し、本来の姿が月の光によって明らかになる夜だけ抱いて、それ以外は放っておく。お手伝いにも手を出すし、いねが病死すると、さっさとキャバレーの女をひっかけるのだ。
また、品子に対する扱いもなかなか酷い。後妻になるよう強要までした品子が、あてつけに松崎と不倫をすると、嬉々として二人に心中しろと迫る。それは、鳥撃ちを趣味とながらも本心では「人間を撃ちたい」玉脇にとって、人の死という性行為とは別種の人間の本質に迫る瞬間が見られるチャンスだからだろう。
つまり、人形の裏を覗きこむことが表す、男が女と交わることは、すなわちその女の裏側を知ることであり、それを知れば女は無価値になる、ということを意味するのではないか、と思った。

 

また、女性がどう扱われるかということについて、おそらく鳥で喩えられているシーンもあった。
松崎の下宿先の、もともと玉脇のお手伝いであった鳥屋の女が、鳥が死んだときに「鳥屋をやめようかしら。売った先でもすぐ死んじゃうし」というようなことを言うシーンがある。なぜすぐ死んでしまうのかと言えば、これは推測であるが、きちんと世話をされないからだろう。
美しい鳥を手に入れたとき、店で見ているときに感じていた欲望が鳥に与える価値は失われる。その価値は「自分より先に他の人間がこれを手に入れるかもしれない」という危機感、つまり想像上の他者の欲望に支えられている部分があるからだ。
イレーネが高級娼婦であったというセリフから考えるに、鳥屋の鳥は、遊郭の女を表すのだろう。

 

松崎は玉脇とは違った。物語の序盤で品子と関係を結んでも、なお彼女を愛し続ける。
陽炎座でいねと品子の物語が演じられているとき、玉脇に「筋を書いたのは君じゃないかね」(?)と問われた松崎は、「こんなリアリズムはやりませんよ」(?)と答える。つまり、彼からすれば、自分が生きているのは理想、あるいは幻想の中であり、このようなドロドロとした愛憎劇の現実には生きていない、ということだろう。
芝居による物語の種明かしが終わり、品子が自殺の決意を固めて幕の裏へ消えてしまうと、陽炎座は崩壊する。品子は大きな桶の中の水に浸かり自殺する。松崎も後を追う。
結局、心中をしたのは品子と玉脇であった、正直、ここはよくわからない。いねが仕組んだのだろうか。品子はいねになんとなく哀れみを感じているような様子だったので、もしかすると、いねが品子に乗り移って、恨みのある玉脇をあの世へ連れて行ったのかもしれない。
ラストシーンで、東京へと戻った松崎は、死んだはずの品子を探す。祭囃子を頼りに歩くと、不思議な部屋の中に品子を見つける。すると、松崎は二人に分かれ、片方が品子の元へ行き、背中合わせで座って映画は終わる。これは、現実を生きる松崎から分かれた夢を生きる松崎が、品子とともに生きていくのだ、というようなことだろうな、と思った。

 

映画に関係があるといえばあるかもしれないし、ないといえばないかもしれない感想


僕は性的なものを醜いもの、汚いもの、表に出すべきではないものだと思って生きてきた。それゆえに、他人からそうした感情が発されると嫌悪感を覚えてしまう。
猥談の類も自分からしたことはない。
覚えている限りでは、中学の修学旅行の夜に同室の人間に話を振られたことがあったが、その時も冗談を言って笑いに逃げた。
そういう風に生きてきたので、自然と周囲にいる人間も性的な感情を表に出さないタイプの人間ばかりになっている。恋愛がどうこうという話もほとんど聞いたことがない。
性的な感情を持つこと、ではなく、表に出すこと、見えることに強い嫌悪感があるのだ。
持つことにも罪悪感のようなものはあるが。

 

なぜこのような人間になったのか、原因はなんとなく想像がつく。
まずは教育による刷り込みだろう。
これに対してどのように反応したかで、その後の人格の方向性がある程度決まる気がする。
「性的なものはいけないものなんだ」と受け止めた場合、禁欲的な態度を身につけ始め、享楽的な態度の人間とは距離を置き始める。
禁欲的な人間は勉強文化と親和性が高い。いや、逆かもしれない。勉強文化になじんでいる人間が禁欲的になるのか。どちらにせよ相関はあると思う。
性的なものが快楽という即自的な報酬を与えるのに対して、勉強はそうではない。欲望を制御し、努力を積み重ね、様々なコストを勉強に振り分けてやっと何らかの報酬が得られるからだ。
そうなると、性的なものに対する態度によって、社会的な位置が分かれていくことになる。そして、禁欲的態度を持つ人間は、自身の優位性を示すべく、享楽的態度の人間が持つ価値観や生活様式に否定的になる。例えば、肉体的なものは精神的なものより劣っていると考える、などだ。
穴だらけの理屈かもしれないが、おおよそこのようなことはしばしば見られるのではないだろうか。

 

話を映画に戻すと、僕は玉脇にかなり嫌悪感を覚えた。
どうやら彼にとって、人間の裏側というものは、肉体的に交わればすべて見えるものらしいからだ。
作中の時代を考えれば、権力者の男性が女性を中身のない存在だと考えてもおかしくはない。
しかし、人間は動物であって動物ではないのだから、それまでの人生で培われた思考や価値観など、もっと豊かで興味深いものを持っているではないか、もし持っていなくとも、関係を結んでからいくらでも育めるものなのではないか、と思った。こいつは劇作家のパトロンをやっているくせに、何もわかっていないな、とも思った。
「女は弱いものじゃございません」みたいなセリフがあったが、僕は「人間はそんなに動物じゃございません」と言いたい。

 

しかし、僕には僕で問題がある。
人間が動物でもあるならば、本能的な部分も重要な意味や価値を持つはずだが、僕はそれを認められていない。
僕はその「裏側」を覗いておらず、すでに自分が経験している人間関係からの類推と、創作物などで得た知識のみで物事を語っているわけだから、玉脇のような人間への僕の批判は、食べたこともない異国のお菓子の味を原材料から想像して品評するくらい説得力がない。
やはり、精神的なものは肉体的なものより優れているという考え方は捨てるべきではないか、という気がしている。いや、そもそも精神的なものと肉体的なものとが分けられるというのも間違いなのではないか。

 

今の僕は、芸術というフィルターを通してやっと、他者の性的な感情に対して肯定的な評価ができるが、いずれは生身の人間のそれを認めなくてはならないのだろう。少なくとも否定してはならない、ということを、この作品を観て考えた。

 

映画とはあんまり関係なかったか。

『暗殺の森』感想

ざっくりした感想

11月5日(日)に京都シネマで『暗殺の森』を観た。

京都シネマに行くのは『リバー、流れないでよ』以来の2回目だ。

名画を上映していることは知っていたので、ちょくちょく行こうとは思っていたのだが、面倒くさがりな性格なので、全然行っていなかった。

今回は誘ってもらったので行くことができた。タイトルも知らず、知っていても自分からは観ないであろう映画だったので、とても良い経験ができたと思う。

ざっくりとした感想を言うと、面白かった。

まず画がとても綺麗だった。モダニズム建築の非人間的でゾッとする建築やパリの街並みが綺麗で、映像を観るだけでも満足感がある。

ただ、示唆的なシーンが多い(ような気がした)ので、考えながら観てしまい、没入できたかと言われればそうではない。

僕自身は、考えなくても面白くて、考えるともっと面白くなる映画が良い映画だと思っているので、明らかに何かしらの意図があることをちらつかせるのは少し抑えてほしいような気がした。しかし、これはすぐに理解できないくらい僕の思考が鈍いせいなのかもしれないが。

観たあとで思い返してみて、やっと意味を掴めたような気がするので、ここでちょっと整理してみたい。

 

内容の解釈

(※一言一句セリフを記憶できるわけがないので、以下文中に登場する「」は『「」のようなことを言っていた気がする』くらいの意味。間違っていれば教えてほしい。)

 

退廃

この映画におけるキーワードの一つは「退廃」だと思う。

マルチェロのローマでの生活にはとにかく退廃的な空気が漂っている。

マルチェロの父親は精神病院に入院し、モルヒネ中毒の母親は荒れ放題の家で情夫たち(運転手のアルベリと多頭飼育崩壊に近い犬)に囲まれた生活を送っており、彼はまともな家庭で育っていないことがわかる。

他にも、人々が欲望や衝動を自制できなくなっている様が描かれている。

例えば、彼の花嫁となるジュリアは、15歳の時に両親の友人で叔父のように慕っていた男性に強引に関係を迫られており、さらにはその男性はジュリアの結婚の前に彼女の母親に対してマルチェロを誹謗中傷する手紙まで送っている。また、過去の性経験のせいなのか、ジュリアは自身の性欲をあまり抑えられていない。

さらに、結婚パーティーの場面では、ある視覚障害者が別の視覚障害者に対して、祝いの席であるにも関わらず殴りかかるというシーンもある。

ファシスト党内部においても同様である。

例えば、彼が大臣(?)に初めて会いに行く場面では、大臣(?)は娼婦を連れ込んでいるし、マルチェロが教授暗殺についての修正命令を受ける場面で、ラウル(? みたいな名前のの上官みたいなやつ)の机には大量のクルミが置かれている。

 

また、退廃的な空気は背景によっても表現されている

作中において日が差している場面はほとんどなく、曇りか夜がほとんどである。また、作中に登場する建物、施設のほとんどはシンメトリーであったり、装飾品が非常に少なかったりと温かみに欠ける。

 

マルチェロとはどのような人物か。

彼は自身のことを「正常な人間ではない」と考えており、「正常な人間」になりたいと思っている。

少年時代にリーノによって犯されそうになり、彼を殺してしまったというトラウマが原因の一つであろう。

また、彼は強者には媚び、弱者には強気な人間として描写されているような気がする。

そもそも彼がリーノに犯されかけたのは、彼がいじめられていた時にリーノの車に乗せてもらったからである。その際には、後ろの窓から車を追いかける同級生を眺めており、また、リーノの甘い誘いにも乗った。子どもの彼にとってはリーノは強者であり、いじめっ子たちに勝つためには彼と仲良くすることが必要だからである。

一方で、アルベリを暴行するようにマンガニエッロに命令するときは、途端に「先生ではなく同志だ!」と高圧的になり、アルベリがいないことを心配する母親を横目に、彼を嘲るように「アルベリ!」と呼んでいた。

さらに、彼には他責思考(?)のようなものもある。

彼がアルベリを暴行するように命令したのは、アルベリが彼の母親をモルヒネ中毒にしていると思ったからである。また、これは考えすぎかもしれないが、クアドリ教授の自室での会話の際に、卒業論文のテーマをなぜ買えたのかと言う問いに対して、「先生が大学を辞めたから」と答えている。そのまま書くこともできるはずなのに。彼は、彼自身や身内に対して責任があると考えないのかもしれない。

 

イタロとは誰か。

イタロはマルチェロの友人の視覚障害者である。ラジオ番組では、ファシスト党のスポークスマンのようなことをしている。

彼は自分とマルチェロは「正常な人間」ではなく、特殊な人間だと考えており、そこに優越感のようなものを感じている。

彼個人についての説明は以上だが、彼の存在が示唆するものとはなんだろうか。

それは、作中でクアドリ教授が説明したプラトンの洞窟の比喩において、影を現実だと思い込んでいる人々のこと、つまりマルチェロと違って純粋なファシストである。

終盤でマルチェロがイタロに呼び出されて出かける前にジュリアと会話をするシーンでは、マルチェロがイタロの杖のような役割を果たしていたこと、彼が見たことをイタロに聞かせると、「まるで自分で見ているようだ」とイタロが言っていたことを語る。

また、イタロがマルチェロに「正常な人間」の説明として、「美人とすれ違ったときに、後ろを振り返り、自分と同じように美人を見た人が5,6人いることに安心する人間」という説明をしたが、視覚障害者であるにも関わらず、視覚的イメージを持って説明するのは、見えていないものを見えていると思っていることを表していると考えられなくもない。

(後天的に視力を失った可能性もなくはないが、作中ではファシズムに傾倒することを盲目に例えているであろうセリフが出てくるので、おそらくそうではない。)

 

 

マルチェロにとってクアドリ夫妻とは何か。

まず、クアドリ教授は、マルチェロファシズムへの傾倒から覚まさせる可能性を持った人物であるといえる。そのことは、夫妻を追って車を走らせている時に、マルチェロが「夢の中で目が見えなくなったが、クアドリ教授に手術をしてもらったおかげで目が見えるようになったのだ」と語ることからわかる。

また、マルチェロがクアドリ教授と教授の自室で洞窟の比喩についての会話をしているとき、マルチェロの影は教授が窓を開けたことによって消える。

さらに、ジュリアとアンナがダンスをするシーンでは、ダンスは男女がするものであると思っているマルチェロは「やめさせましょう」と教授に言うが、教授は「なぜ?」と言って、やめさせることはない。その後、その場にいた人々は皆で手をつなぎ楽しく踊りはじめるのだ。

 

それでは、マルチェロにとってアンナとは何か。

それは自由、自立の象徴だと考えられる。

アンナがジュリアにドレスを着せるシーンで、ジュリアが「侍女の真似事?」と聞くと、アンナは「やりたいからやるの」と答える。ジュリア一家は中産階級であるため、メイドがいるが、ジュリアは私的空間にメイドがいても気にせずにマルチェロと抱き合いキスができることから、メイドを一人の人間として扱っているとはいえない。ジュリアは階級制度を内面化している。

また、アンナはバレエスクールで教師をしており、自立した女性として描かれているように見える。

そもそも、初登場のシーンで、吠える犬に子どものように怯えるジュリアと、それを飼っているアンナとは対照的であるし、他のシーンでも夫であるマルチェロに子どものように甘える幼さがあるジュリアに対して、アンナはクアドリ教授と対等な関係性を築けているように見える。客人として現れたクレリチ夫妻をもてなし、煙草をふかしてソファーに腰かけ、夜の予定を決めるアンナには裁量が十分にある。

そのようなアンナに感化されたのか、ジュリアは女性同士で踊ることを素直に受け入れて楽しみ、それはホールにいた人々を巻き込むのだ。

 

ここで、なぜマルチェロがアンナに惹かれたのかについて考える。

二人きりの部屋で会話をするシーンで、マルチェロはアンナがある娼婦にそっくりだと言う。その娼婦とは、彼が暗殺の修正命令を受けるときに、マンガニエッロに抱かれながら「私頭がおかしいの!」(忘れた)と叫んだ娼婦のことだ。彼はその娼婦を抱きしめるわけだが、それは、おそらく「私は正常な人間ではない」と主張できない弱い自分とは違って、それを認める強さを持っているからではないだろうか。(娼婦を抱きしめるマルチェロは「時間を無駄にするな」と声をかけられる。弱さに目を向けることは無意味なことだとされている、と言いたいのかもしれない。)

そして、その後で出会った自由や自立を体現するアンナにも別の強さを見て、彼女に惹かれたのだろう。

マルチェロは、自身の異常性を認めるのではなく、アンナのような強さ、自由や自立に憧れ、それを自分のものにしたいと考えた。彼はアンナとの夜の逢瀬の際に、彼女に花売りから買った花をプレゼントする。花売りのお礼の歌の内容は革命を示唆するようなものであったことから、マルチェロの転向の意思を感じることができる。

 

しかしながら、マルチェロは転向することはなく、クアドリ夫妻は暗殺されてしまう。

暗殺のシーンで、教授は寄ってたかってナイフで刺される。突然道を塞いだ車のドライバーを「急病かもしれない」と心配するクアドリ教授の良心は裏切られ、圧倒的な暴力によって蹂躙されてしまうのだ。それをマルチェロは拳銃という力を手にしながら、暗殺を実行することもできなければ、助けることもできず、ただ車の窓から眺めることしかできない。彼は卑怯者になるのである。

 

マルチェロの何が問題か。彼はどうするべきだったか。

マルチェッロの問題とは、彼に内面や己がなかったことではないだろうか。

冒頭で、彼は「結婚すれば正常な人間になれるのではないか」と考えてジュリアと結婚した。しかし、「正常な人間」が結婚するのであって、結婚することで「正常な人間」になるのではない。

彼には内面がないため、外面を整えることでしか「正常な人間」に近づくことができない。(中華料理店での会食シーンで、「彼は笑わない」とジュリアが言っていたのも、彼にとって何が嬉しいのかどうか判断する基準がないからかもしれない。)

彼が外面にこだわるシーンは他にもある。暗殺用の拳銃を受け取った後で、ラウル(?)の部屋の入口付近でぎこちなく拳銃を構えたとき、帽子がないことに驚き慌てる。帽子にスーツ、拳銃が彼を「スパイ」たらしめるのであり、それを失えば彼は「正常な人間」からさらに遠ざかってしまうからである。

スパイとしても役割を彼が与えられたことも、彼の外面を偽ることに重なる部分がなくもない。

 

彼のかろうじて内面らしいものといえば、幼少期にリーノに犯されかけたトラウマである。彼はそれがあったために「正常な人間」ではなくなったと思っており、現在の彼の人生はそこを出発点としている。

しかしながら、体制崩壊後にイタロと会った夜、リーノが死んでいなかったことを知ったことで、彼を構成し、ある意味では支えていたトラウマすらも失ってしまう。

したがって、彼は内面を完全に失って発狂する。彼は「リーノがクアドリ夫妻を暗殺した! やつはホモだ!」「イタロはファシストだ!」と民衆に叫ぶが、前者の発言は明らかにおかしい。暗殺に加担したのはマルチェロだからだ。

しかし、これは彼に内面が存在しなくなったと考えると筋が通るかもしれない。内面がないということは、すなわち主体もなく、行為に対して責任を負うことができないからだ。

そうして彼は火、つまりは理想を失い、暗闇のなかでじっとすることしかできなくなったのである。

 

彼はどうするべきだったのだろう。

まず、彼は外面を偽ることをやめて、内面を作り上げるべきだったのではないだろうか。

結婚によって「正常な人間」になろうとしたが、ジュリア自身も過去に「異常」な性体験をしていたため、結局彼は異常さから逃れられなかった。

内面がなければ反省を活かすことができないので、人生が好転することもないのだ。

次に、彼は行動するべきだった。これは内面がない人間には難しいかもしれないが。

彼は、自分の意志で行動することはほとんどない。常識や他人から言われたことに従うだけだ。

最終的には命令ですら行動できなくなった。暗殺を実行することもなく、助けるわけでもなく、見ているだけだ。そして、体制崩壊後も自分の身の振り方を考えることもなく、仲間たちに合わせるだけだと言っている。

 

リーノのせいで以降の彼の人生のすべてが狂ってしまったと考えると、独力で行動する人間になることはできなかったかもしれない。すると、彼は「正常な人間」になれないことを運命づけられていたのだろうか。

いや、クアドリ夫妻との交流で、彼はわずかであるが変わりかけた。

となれば、「彼はどうするべきだったか」ではなく、「彼をどうするべきだったか」を問いとするべきなのかもしれない。

もし、彼の家庭が機能不全に陥ってなければ、彼はいずれトラウマに支えられた自身から脱却することができたかもしれないし、そもそもいじめられることがなければ、トラウマを植え付けられることもなかった。彼のような人間を作り上げたのは社会であり、彼を「正常な人間」にできる可能性があったのもまた社会なのではないだろうか。

 

まとめと改めての感想

この映画は、内面を持たない人間がどのように体制に取り込まれ、破滅していくのかを描いた作品であり、「正常な人間」を作るのは自己決定による行動と健全な人間との交流であると言っているような気がする。

マルチェロは哲学を専攻するも、全く内面を作り上げることはできなかった。詳しくは描かれていないが、クアドリ教授に覚えられていなかったことから交流はなかったのだろう。また、「正常な人間ではない」という自己認識に囚われすぎていたような気もする(トラウマなので仕方がないことだが)。

認識のみで自分がどのような人間かと定義してしまうのはおそらくいいことではない。自分を変えるための行動は起こせずに、むしろ自分の首を絞めていくだけではないかと思う。

例えば、「恋人がいない自分は以上なのだ」と言う人をしばしば見かける。また、ネット上で「異常独身男性」などという言葉で自虐をする人たちもいる。

おそらく、彼らは具体的な他者からそれを言われたわけではなく、他者と比較して自ら烙印を押している。

そうして作り上げられた自己認識を拭い去るのは容易なことではない。比較元であるはずの他者から「あなたはそんな人間ではない」と言われても、納得することはできず、どんどんしようと思うことは減っていき、自ら決めた枠の中にはまり込んでいく。

その枠から出るためには、実際に行動し、比較元である「誰か」がどこにもいないことを知ることに加え、自分の行動の軌跡によって、自己認識を変革する以外にないのではないだろうか。他者と交流すれば、マルチェロにとってのクアドリ教授のように、蒙を啓いてくれる人物に出会えるかもしれないし、自分の足跡を振り返ることで、自分の変化に気づき、自己認識を改めることもできるかもしれない。

自己認識は出発点を明確にするうえで重要ではあるが、そこにとどまり続けて、行動を限定するのは良くないことである。それを各人がやることによって、階級や独裁体制が出来上がっていく、というのも大げさなことではないのかもしれない。

 

 

僕自身の話をすれば、どちらかといえば行動よりも認識を優先しがちで、それゆえに大事なものを取りこぼしている部分がある気がしている。今回、この映画を観たことによって、それを少し反省しようと思った。

 

 

観た映画の記録と感想(2023年10月)

 

その男、凶暴につき

めちゃくちゃ面白かった。

暴力刑事・我妻が、非合法な事業をしている青年実業家に飼われている殺し屋・清弘と殺しあう、暴力に取りつかれた人間が破滅していく様を描いた話。

とにかく暴力の描き方が良い。リアルに痛みが伝わってくる。特に良かったのが、我妻が清弘をロッカールームで暴行し、部屋の外で見張りをしている後輩刑事の菊池が、そのロッカーに体がぶつかる音を聞いて顔をしかめるシーン。殴っているところを映さずに、部屋の外に漏れ出た音を聞かせて部屋の中で行われている暴力を想像させるというのが面白かった。また、映画館を出たところを清弘に襲われ、拳銃で撃たれそうになった我妻が、清弘の腕を蹴って躱したせいで、たまたま居合わせた女性の頭が撃ち抜かれるシーン。暴力の理不尽さを改めて理解することが出来る。他にも、冒頭のホームレスを襲撃した中学生を部屋でボコボコにするシーン、クラブのトイレで薬の売人をビンタし続けるシーンなども、狭い場所で行われる暴力、終わらない暴力に対する恐怖を感じることができる。

とにかく、この映画には北野武の「暴力」という物に対する深い洞察が現れている気がした。

単純に画がかっこいいのも魅力。スーツ姿のたけしを見ると、惚れる人がいるのもよくわかる。

 

ソナチネ

めちゃくちゃ面白かった。

たけし演じるヤクザの村川が組長からの命令で沖縄の抗争の助っ人に行く。すぐに手打ちになるだろうということだったが、徐々に抗争は激化する。舎弟たちと沖縄の海辺の小屋に潜伏しつつ、束の間の休息を楽しむことになるが……みたいな話。

『その男』が面白かったので、評価の高いこの作品を観てみようと思ったら、『その男』以上に面白かった。沖縄の青い空と海、白い砂浜という、この世の楽園のような風景と、血みどろの抗争、村川の鬱屈とした感情がちぐはぐだからこそ、互いを際立たせていて、「死」という物に対する感覚が壊れていく気がした。ヤクザが子供に帰ったように浜辺で過ごしていると思ったら、突然現れた殺し屋に撃ち殺されてしまうとか。特に印象深かったのは、村川の舎弟と沖縄の組の男の二人が頭に缶を乗せてお互いに拳銃で撃ち落とす遊びをしているところに、村川が悪ふざけでロシアンルーレットを始めるシーン。村川は笑いながらやっているのだが、心の中では「死んでしまってもいい」「すべてどうでもいい」と思っているように見える。

「遊び」には、それなりの熱意と没入が必要である。しかし、村川は「ヤクザやめたくなったな。なんか、もう疲れたよ」と思っていて、恐らくすべてに嫌気がさしている。だから、人生に対して真剣ではいられなくなり、生き死にを賭ける(実際は賭けていないのでポーズでしかない)ことくらいでしか、人生に参加できなくなっている。抗争が激化しても感情を大きく波立たせるようなことはなく、淡々と、静かに破滅に向かっていくのだ。

僕はそういう鬱屈とした感情を抱えた主人公が、周囲で起こっている物事に関わっているようで関わっていないというか、実際のところはどうでもいいと思っているような作品が大好きだ。うまく言語化はできていないのだが、主人公が自己完結するタイプで、自分の命や人生など打ち捨てても構わないとすら思っていて、そのたまりにたまった負の感情が、物語の最後に主人公の自己満足的だったり破滅的だったりする行動によって一気に昇華される作品を観ると興奮する。これまでに、梶井基次郎檸檬と、マーティン・スコセッシ監督作品のタクシードライバーにそれを感じていたのだが、『ソナチネ』にも似たようなものを感じた。

おそらくこの映画は、これからふとした瞬間に思い出し、その度に見方が変わるのだろうな、と思った。

 

 

『ラストナイト・イン・ソーホー』

そこそこ面白かった。

憧れのロンドンの服飾専門学校に入学した主人公の女の子が、寮になじめず、なにやらいわくつきの下宿先に引っ越したところ、1960年代(?)にそこに住んでいた、歌手を夢見る少女になる夢を見るようになり、その少女が夢破れていく様を見るにつれて、徐々に主人公の現実もおかしくなっていく、みたいな話。

本当に、まあまあ面白い、としか言えない。面白くないことはないのだが、どこが面白かったのかと聞かれると答えられないぐらいの映画。

どれだけ芸が素晴らしくても、体を売らなければのし上がれないとなったら、精神は壊れていくだろうな、と思った。

 

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』

期待していたよりは面白くなかった。

コインランドリーを経営する中国系アメリカ人のおばさんが、別の宇宙の自分の記憶と能力をダウンロードして、宇宙を滅ぼす娘と、ある日突然戦うことになる話。

表現したいであろうテーマは好きなのだが、「とにかく斬新なものを見せてやるぞ」感が逆に滑っている気がした。別の宇宙の表現(指がソーセージ、人間ではなく石が生命体)とか、「奇行が別の宇宙にジャンプする力になる」みたいな設定とか、マンガとかアニメに触れているオタクの中学生、高校生が一番最初に考える「斬新さ」っぽくてしんどくなった。あとはアニメ的熱さ(「それでも……○○するんだ!」みたいな)も受け付けない。「じゃあお前が作ってみろよ」と言われたら黙るしかないのだが。登場人物が人間ではなく「キャラクター」に見えたら僕はもうしんどくなるんだな、ということを理解できた映画。

たぶん僕に合わなかっただけで出来は良い映画なんだろうな、と思う。

 

 

ザ・コンサルタント

まあまあ面白かった。

手を出してはいけない男に手を出してしまった、系アクション映画(『ジョン・ウィック』『イコライザー』『Mr.ノーバディ』みたいなやつ)かと思いきや、愛も描いている映画だった。他の似た系統の作品とは違って、ちゃんと物語に意味がある。

 

 

グランド・イリュージョングランド・イリュージョン 見破られたトリック』

普通。

凄腕マジシャン集団が義賊をやる話。チームにメンタリストのおっさんがいるのだが、こいつが強すぎる。ほぼ超能力に近い催眠術を使う。

 

ラッシュアワー

面白かった。

中国領事の娘が誘拐される事件が発生したことで香港から呼び寄せられたリー刑事と、無茶苦茶な捜査をすることから、ロス市警から厄介払い同然で彼のお守りをするよう派遣されたカーター刑事が、誘拐事件の解決に取り組む話。

ジャッキー・チェンのアクションはコミカルかつ激しいので、見ていて楽しい。カーターも最初は自身の力量をわかっていない感じが鬱陶しいのだが、だんだん好きになってくる。楽しい映画。

 

 

浅草キッド

かなり面白かった。

北野映画を観たことで、本人に興味が出てきたので観てみた。その結果、柳楽優弥大泉洋がすごい俳優であるということがわかった。深見千三郎のどんなになっても格好つける、客に甘えずにひたすら芸を磨き続けるという姿勢はかっこいいなと思った。

 

『福田村事件』

そこそこ面白かった。

ただ、どうでもいいエロシーンが多かったのが気になった。不倫めっちゃするし。昔の田舎の貞操観念はこんな感じなんですよ、教育をしっかり受けていない人間というのは動物みたいなものなんですよ、という表現がしたかったのか? 柄本明が演じる爺さんが死んだときに、不倫関係にある嫁が亡骸の前で胸をはだけて、爺さんの顔に覆いかぶさって「ごめんね」とかなんとか言いながら泣くシーンとかいるか? 東出昌大は不倫するし。

実際にあった事件をただ映画にするだけではだめだから、村人の人間模様や、村に戻ってきた元教師の男とその妻の過去を足して厚みを出そうとするのはわかるけど、取って付けた感じがして良くなかった。映像はまあいい。引き戸の音とか、環境音が大きいような気がしたけど、これは気のせいかもしれない。

 

燃えよドラゴン

面白かった。

ブルース・リー主演の映画を観るのは初めてだったが、かっこいいな。ただ、アクションを映すときにアップにしすぎて逆に迫力に欠けていないか、と思うシーンもあった。

 

シックスセンス

面白かった。

コール君役の演技がめちゃくちゃうまい。あと、ブルース・ウィリスにガサツなおっさん役のイメージしかなかったが、物凄くやさしげで驚いた。俳優ってすごい。

 

ジョン・ウィック:チャプター2』

普通。

次々とヘッドショットを決めて敵を倒していくのは爽快感があっていいけど、3はもう観なくていいかな、くらい。ジョン・ウィックとその他殺し屋組織がただの馬鹿なんじゃないかと思えてしまった。アクションは良いけど。

 

 

『空のハシゴ:ツァイ・グオチャンの夜空のアート』

かなり面白かった。

火薬を使う中国人芸術家のツァイ・グオチャンの「スカイ・ラダー」プロジェクトを追うドキュメンタリー。実物を見てみたいな、と思った。中国で芸術活動を行うことの難しさと愛国心とのせめぎあいなど、芸術家の悩みの一端を見ることが出来た。芸術の秋に観るべきドキュメンタリーだと思った。

熱狂が怖い

熱狂が怖い。

スポーツイベントで歓声をあげたり、敗北で涙を流したりするファンの映像を観ると毎回思う。

彼らの巨大な感情のうねりが怖い。

カッと見開かれ、爛々と輝くあの目も怖い。僕とは全く違うルールに支配されているような気がする。

「自分と何の関わりもない人間の勝利や敗北に、なぜそこまで入れ込めるのか」とも思っている。

彼らを馬鹿にはしているわけではない。僕には理解できないという話であって、そういうもので一緒になって盛り上がれたらいいのにな、と思うときもある。けれども、自分が持ち合わせていない共感力の高さや、得体の知れない巨大な感情が怖い、という話だ。

 

こうした熱狂は、僕が勝手に怖がっているだけで、そこまで害があるものではない。

自分の生活を豊かにし、また、そのエネルギーを他人に与えることもあるからだ。

本当に怖いのは、「熱狂」というより、「集団心理」とか「群集心理」みたいなものかもしれない。

同じような感情を持った人々が集まることで、感情が増幅し、それに飲み込まれ、冷静な判断ができなくなり、規範意識や倫理観が著しく低下することが怖い。

最近でいえば、阪神が優勝して道頓堀に飛び込む、とか。

まあ、これはだいたい自己責任で済むので、他人に迷惑をかけることはあっても、他人を傷つけることまではしていない。

他人を傷つけた例を挙げると、数年前の渋谷のハロウィンで軽トラックを転がした事件や、Jリーグのサッカーファンによる暴動などだ。これは他人を傷つけるので、はっきり有害だといえる。

この二つの事件が起きたのは、それぞれ「楽しい」「怒り」といった感情が大勢に伝染したからであろう。

 

他には「恐怖」によるものなんかもある。

先日、出町座で『福田村事件』という映画を観た。

これは千葉県の福田村という場所で実際に起きた、村の自警団によって香川県から来た行商人一行15人のうち9人が殺された事件である。関東大震災の直後、「日本人からひどい扱いを受けている朝鮮人が、恨みから、混乱に乗じて日本人を襲ったり、井戸に毒を入れたりしている」というようなデマが流れた。そこで自警団が各自治体で組織されていたとき、薬を売りに全国を回っていた行商人一行が福田村にやってきた。彼らの持ち物や聞きなれない方言から、村人は彼らを朝鮮人だと思い込み、パニックを起こして、ついに彼らを次々と殺してしまうのである。

(余談:映画自体の出来はそこそこだった。観に行ってそこまで損はないと思うが、別に得もない程度の出来だ。「これいるか?」と思うようなラブシーンがある。また、行商人一行が殺されるシーンは映像の惨さと音の大きさもあって、かなりのストレスを感じる人もいるかもしれないので、ストレスに弱い人は観ない方がいいと思った。)

 

行商人たちを囲み、「鮮人だ! やってしまえ!」とわめく村人たちがいる中、他の村人を止めようとした人たちもいた。(実際の事件でもいたのかどうかは知らない。)こういう人間は、よく言えば周りに流されないが、日常では共感力が低いのかもしれないなあ、と思いながら観ていた。

 

ここまでの事例は大人数によるものだが、少人数のものなら日常生活にも溢れている。

例えば、飲食店で話が盛り上がってしまい、周りのお客さんが「うるさいなあ」と思うくらいに声が大きくなることとか。これも「楽しい」という感情に飲み込まれて、社会一般の常識や節度というものを意識しなくなる状態だろう。

 

少し前にこんなことがあった。

夏休みに、友人二人と明石のジュンク堂に行った時のことである。

僕以外の二人は棚を眺めながら本についての話をしていた。僕は本屋で話すのが嫌いなので、頷き程度で会話には参加しなかった。

初めのうちは二人の声はひそひそとしたもので、他の客のことを考えたものだったが、だんだんと大きくなってきた。僕が不機嫌になってきていることも気づいていたようだが、それも気にすることなく笑っていたので、その時だけは二人への好感度が急落した。

普段は他人の事を考えることのできる人間だと思うのだが、そのような人間でも、群れれば自分たちのこと以外を気にしなくなってしまうのが、とても怖かった。

 

ここまで怖い怖いと言っていると、もしかしたら僕が彼らを劣った人間だと思っているように見えるかもしれないが、今は全くそんなことはない。むしろ、僕のほうが劣っているのかもしれない、と最近では思っている。

普段意識することはないが、社会は暗黙のルールに支配された無数のゲームによって構成されている。その個別のゲームのルールにうまく乗れない、どこまでいっても「個」にしかなれない人間がごちゃごちゃ言っているだけのことだ、と思うからだ。

ルールと言うのは、例えば、「大人数での食事の際は、普段の会話よりも大きな声で話す」みたいなことだ。大きな声で話さないと、そもそも会話がしづらい。また、声が小さかったり、豊かな感情表現をしていなかったりすると、楽しんでいないように見えて、楽しい空気が壊れてしまう。「みんなで楽しく食事をする」というゲームの目的を達成するために、ルールが敷かれているのだ。

まともな人間であれば、特に意識をすることもなく、その場のルールに則った振る舞いをすることができるだろう。

しかし、「個」の人間は、いらないことを考えてしまう。「でも、普段の自分はそんなに大きな声で話さないしな……」みたいなことだ。

ジェットコースターに乗るときは笑顔で叫ぶのがルールで、ドッジボールをするときは必死になってボールを避けたり投げたりするのがルールなのに、「個」の人間は常に幻像の「自分」に監視されていて、そこから外れるような行動はできなくなる。

一般的な言葉を使えば「ノリが悪い」。何に乗れないのかと言えば、その場のルールにである。そして、人々を支配するそのルールが、何か得体の知れない化け物のように見えて、それを恐れているのである。

 

所詮勘違いでしかないのだが、不変の「自分」というものがあって、あらゆる状況下でそれを保たなければならないのであり、それができる人間こそが自律した人間なのだ、と思っていた時期があった。

その時は、テレビに映った「他人の勝利に一喜一憂する馬鹿なファン」や、「ハロウィンで騒ぐ馬鹿な若者」に苛立ちを覚えて、「こういう人間が戦争を起こすんだろうなあ」と半分本気で見下していた。そういう人間がいなくなればいいのではないか、自律した個人が作る冷たい社会こそが理想郷なのではないか、みたいなことも考えていた。

しかし、今はそうではない。

もしも僕みたいな人間ばかりになったら、不活発さゆえに人類は全く発展しなくなるか、限りなく発展のスピードが落ちるだろう。また、共同体意識も弱いので、気に入らない人間を静かに排除する社会になるかもしれない。さらに、間違った方向に社会が進んだとしても、義憤によって結束し、政治運動を起こして正すことも出来なさそうだ。そもそも、社会らしい社会を構築できないかもしれない。「ただ、そこにいるだけ」になるかもしれない。

逆に、彼らのような人間ばかりになっても、争いが絶えない世界になるかもしれない。

結局、どちらかだけになるのは良くなくて、多数の熱狂できる人間と、少数の僕みたいな人間がいる、くらいがバランスとしてちょうどいいのだろう、と思っている。

せいぜい、「ノリが悪いやつ」の一人として、社会の隅っこで生きていくしかない。