気がついたら「社会人」になって半年近く経っていた。
とりあえず内定をくれた会社に入ったが、今のところ、運よく当たりの会社に拾ってもらったな、と思えている。
就職活動を始めた頃は全く意識していない業界だったものの、僕が文学部で一応専攻していた(?)社会学と分野的に遠くはないので、仕事の内容は興味深く感じるし、身に着けられるスキルもそれなりにある。リモートワーク多めで働きやすく、先輩社員、上司には穏やかな人が多いので、心理的安全性もそれなりに高い。
入社して少し驚いたのだが、20代後半で結婚する先輩が多い。晩婚化が進んでいると聞くが、「まともな」人たちは結婚しているのだな、と思った。社内で僕が一番人格的に問題があるかもしれない。アラサーになったときに居心地の悪さを感じそうで少し怖い。
今はまだ勉強に近いことをしているだけなので、「社会人」という自覚はない。(そもそも「社会人」ってなんだ? 言葉のわりに実際に意味する範囲が狭くないか? 「民間企業の社員」くらいしか含んでないやろ。)自覚が生まれるのは、一人で完璧に仕事を回せるようになってからだろうから、あと2年くらいかかりそうだ。
現状、平日にパソコンを一日カチャカチャいじっていたら、毎月決まった日にお金が振り込まれているという感じで、これといった手ごたえはない。ごっこ遊びをしているような感覚だ。
東京は人が多いし、ビルだらけで息苦しいし、家賃も高いので埼玉県某所に住むことにした。
研修期間中、某山手線の駅の近くにあるマンスリーマンションに住んでいたのだが、とても住めないと思った。
東京はどこまでも街に終わりがないので、頭がおかしくなりそうだ(東京出身の人には申し訳ないが)。地元は北に山、南に海があったし、京都も山に囲まれていたので、どこか街には縁や外側というものがあった。苦しくなったらそこに行って、自分の生活の場を見下ろすことで気を紛らわせたが、東京ではそうはいかない。都庁や東京タワーなどに上ったところで、ただただ無数のビルが見渡す限り広がっていて、うようよと気持ちの悪い生き物に囲まれていることを認識させられるだけだ。東京育ちの人は慣れているのだろうが、田舎者の僕にはしんどいので、生活や暮らしの匂いが少しでも感じられる場所に住もうと思い、ここを選んだ。
とはいえ、休日は毎週のように都内に出かけて、美術館に行ったり、散歩をしたりしている。住みたいとは微塵も思わないが、東京は遊びに困らない街ではある。なんといっても美術展の充実度は関西の比ではない。日本画も西洋画も素晴らしいコレクションを持った美術館がたくさんあって、あれもこれも行きたいなと思っていると、お金がどんどん飛んで行ってしまう。今月もアーティゾン美術館と東京都庭園美術館に行った。
美術館だけでなく、映画館やら劇場やら、他のマイナーな趣味でも何かしら楽しめる場所があるので、10年くらいは飽きることなく消費者をやっていられるかもしれない。
平日はだらだらと会社員ごっこをして、休日は一人で街に出かける生活を続けているわけだが、こうした変化のない生活を続けているうちに、少しの間眠っていた生きることに対する虚しさが起き上がってきた。
中学時代からずっと生きるのが面倒くさい。人生は暇つぶしに過ぎないと思っている。何もかもさっさと終わらないかな、と思いながら毎晩眠りにつく。特に辛いことはないが、人生に何の意味も見いだせない。よく「人生に意味はない。だからこそ好きに生きればいい」みたいなことを言っている人を見るが、好きに生きたとて、それにも意味はない。死んだらすべては無になって、人生を振り返ることもないのだから、いつ死のうが同じことではないのか、と、イタい中学生みたいなことを考え続けている。
こんなことを言っていると「それなら、さっさと自殺しろよ」みたいなことを言う人間がいるが、自殺する度胸はない。結果としての死は怖くなくても、過程としての死は怖いからだ。失敗すればもっと面倒なことになる可能性もあるので、頭に小さい隕石が落ちてきて気がつかないうちに死ねることを望みながら、ぼんやり生きるしかない。
いや、辛いことはない、と言ったが、もしかしたら嘘かもしれない。世の中には不幸が満ち溢れているような気がするし、自分が何かを手に入れたとしても、すぐに失ってしまいそうな気がする。常に不安に囚われている。失うくらいなら初めからいらない。
昔から完璧主義、減点方式で物事を考える癖があって、幸福よりも不幸が、成功よりも失敗が目についてしまう。少しでも問題があれば、それが頭から離れなくなる。
物凄くどうでもいい話に逸れるが、こういう0-100思考の人間が反出生主義や、その他極端な思想にハマるのではないか。世の中の思想や主義と呼ばれるものは、実際のところ、もっと動物的な、認知構造によって形成されているもので、正しい/正しくないではなく、合う/合わないの問題でしかないのでは、みたいな妄想をしている。どうでもいいけれど。
大学時代は、この悩みをどうにかしようと、本を読んだり、散歩をしたりしながら延々考えていた。あらゆる問題には本質的な解決というものがあって、それをしなければ先に進めないと思っていた。しかし最近では、本当に悩みについて考えることが本質的な解決になるのか、そもそも「本質的な解決」というものが何なのかもわからずに、質の低い思考でも積み上げていけば何とかなる、と思い込んでいただけな気がしている。実は、考え続けたところで先に道はなくて、必死に目をそらしつつ、違うことをやり続けているときになんとなく答えが見つかるという可能性もある。
もうあれこれ考えるのも面倒になってきたので、とりあえず、しばらくは物欲を燃料にして生きることにした。例えば、今、僕はカメラが欲しいことになっている。ヨドバシに寄ったときに、NikonのZ fcを見て、「欲しいなー、欲しいなー」と自己暗示をかけている。他にはクロスバイク。どちらもそれなりの金額なので、手に入るまでには時間がかかる。その間はモチベーションになってくれるはずだ。一度、いけるところまで物質主義に走ってみるのもありかもしれない。
ところで、最近、絵画教室に通い始めた。月2回。通い始めたのは、先ほどからだらだら語っている虚しさが、趣味である美術鑑賞にも侵食してきたからだった。美しい作品を見ても、一瞬心が動いた後で、スーッと冷めていく。趣味だなんだと言っても、所詮は消費に過ぎず、この作品を観るのが僕である必要はどこにもない。うまく言葉にできないが、そんな疎外感のようなものを覚えて、目の前にある絵が遠く感じられるようになってしまった。
美術館に飾られている絵と、気持ちの上では対等にならなければならない。ただ見るだけ、消費するだけでは、何の関係も結ぶことはできない。厳しすぎるかもしれないが、そのように考えて、下手でもいいから絵を描けるようになろうと思った。
8月初旬、無料体験に行った。白いティーポットとレモンのデッサンをした。絵を描くのは高校一年生の時の美術の授業以来だったが、自分でも少し驚くくらい集中できた。物の形、陰影、質感をあれほど意識した経験はこれまでほとんどなかった気がする。2時間近く、できる限り現実を紙の上に再現しようと、目が乾きそうになるまでモチーフを観察して鉛筆を動かし続けた。描き終えた後で、久しぶりに得た充実感に思わず口元が緩んだ。
帰りの電車でも余韻が残っていたので、絵について考えていた。やはり、これまでの自分の「美術鑑賞」は単なる消費だったのだ。美しいものをとにかく目から取り込み、脳を麻痺させて、現実から逃げていただけだった。どうりで美術館に行く回数が増えたわけだ。過剰な飲酒や喫煙、大麻の使用などと、やっていることは同じではないか。
消費をすれば刺激を得られる、しかし、いずれ虚しさを消せなくなってくるかもしれない。もしかすると、虚しさに対処する方法は、何かを生み出し、それによって人生における主体性を獲得することなのではないか。何かを生み出すためには、まず向き合うことから始めなければならない。こんなことは、すでにどこかで読んだ気もするが、馬鹿なので実感しなければわからなかった。「消費とは逃避であり、生み出すこととは向き合うことである」という、うまいことを言っている風の凄く浅いフレーズが浮かんで、気持ちの悪い笑みが浮かんだ。マスクをしていなければ危なかった。
思えば、これまでの自分の人生に主体性や意志のようなものはなかったかもしれない。会社の同期には、課外活動で結果を残してきた人たちがいて、凄いなと思う。僕は一応勉強は少ししたが、それは学校という、人間が一番初めに放り込まれる社会に存在していた「勉強ができることは偉いこと」という評価基準をそのまま受け入れただけのことだし、教師がよく言っていた「勉強しとけば、選択肢が増える」という言葉を鵜呑みにしただけのことだった。選択肢を増やすだけ増やして選ぶことをしなかった。その結果が今である。
現実に対処するだけ、適応するだけではだめで、この世で最も操作可能な存在である自分を動かし、世界に働きかける感覚を少しずつ掴んでいかなければならない。その点では、現実をある意味ゆがめたり、変化させたりする面のある美術に取り組んでみるのは良いことかもしれない。
デッサンで物を観察する訓練を積んだら、油絵に挑戦してみたいと思っている。シスレーやピサロのような風景画を描いてみたい。あるいは、大原美術館で見たセガンティーニの作品のような、まぶしさを感じるほど、光を放つ絵を。日本画も面白そうだが、まずは油絵で足し算的な絵を学ばないと、引き算的な絵は描けない気がする。素人考えだが。身の回りに溢れている光をもっととらえられるようになりたい。
くだらなくて気持ちの悪い文章を書いているうちに、日曜日がもうすぐ終わる。今週は内定式がある。時間が過ぎるのはあっという間だ。しかし、流されて進むのと、歩いて進むのとでは大きく違う。半年後、少しはましな生活ができていればいいが、どうなっているだろうか。