『暗殺の森』感想

ざっくりした感想

11月5日(日)に京都シネマで『暗殺の森』を観た。

京都シネマに行くのは『リバー、流れないでよ』以来の2回目だ。

名画を上映していることは知っていたので、ちょくちょく行こうとは思っていたのだが、面倒くさがりな性格なので、全然行っていなかった。

今回は誘ってもらったので行くことができた。タイトルも知らず、知っていても自分からは観ないであろう映画だったので、とても良い経験ができたと思う。

ざっくりとした感想を言うと、面白かった。

まず画がとても綺麗だった。モダニズム建築の非人間的でゾッとする建築やパリの街並みが綺麗で、映像を観るだけでも満足感がある。

ただ、示唆的なシーンが多い(ような気がした)ので、考えながら観てしまい、没入できたかと言われればそうではない。

僕自身は、考えなくても面白くて、考えるともっと面白くなる映画が良い映画だと思っているので、明らかに何かしらの意図があることをちらつかせるのは少し抑えてほしいような気がした。しかし、これはすぐに理解できないくらい僕の思考が鈍いせいなのかもしれないが。

観たあとで思い返してみて、やっと意味を掴めたような気がするので、ここでちょっと整理してみたい。

 

内容の解釈

(※一言一句セリフを記憶できるわけがないので、以下文中に登場する「」は『「」のようなことを言っていた気がする』くらいの意味。間違っていれば教えてほしい。)

 

退廃

この映画におけるキーワードの一つは「退廃」だと思う。

マルチェロのローマでの生活にはとにかく退廃的な空気が漂っている。

マルチェロの父親は精神病院に入院し、モルヒネ中毒の母親は荒れ放題の家で情夫たち(運転手のアルベリと多頭飼育崩壊に近い犬)に囲まれた生活を送っており、彼はまともな家庭で育っていないことがわかる。

他にも、人々が欲望や衝動を自制できなくなっている様が描かれている。

例えば、彼の花嫁となるジュリアは、15歳の時に両親の友人で叔父のように慕っていた男性に強引に関係を迫られており、さらにはその男性はジュリアの結婚の前に彼女の母親に対してマルチェロを誹謗中傷する手紙まで送っている。また、過去の性経験のせいなのか、ジュリアは自身の性欲をあまり抑えられていない。

さらに、結婚パーティーの場面では、ある視覚障害者が別の視覚障害者に対して、祝いの席であるにも関わらず殴りかかるというシーンもある。

ファシスト党内部においても同様である。

例えば、彼が大臣(?)に初めて会いに行く場面では、大臣(?)は娼婦を連れ込んでいるし、マルチェロが教授暗殺についての修正命令を受ける場面で、ラウル(? みたいな名前のの上官みたいなやつ)の机には大量のクルミが置かれている。

 

また、退廃的な空気は背景によっても表現されている

作中において日が差している場面はほとんどなく、曇りか夜がほとんどである。また、作中に登場する建物、施設のほとんどはシンメトリーであったり、装飾品が非常に少なかったりと温かみに欠ける。

 

マルチェロとはどのような人物か。

彼は自身のことを「正常な人間ではない」と考えており、「正常な人間」になりたいと思っている。

少年時代にリーノによって犯されそうになり、彼を殺してしまったというトラウマが原因の一つであろう。

また、彼は強者には媚び、弱者には強気な人間として描写されているような気がする。

そもそも彼がリーノに犯されかけたのは、彼がいじめられていた時にリーノの車に乗せてもらったからである。その際には、後ろの窓から車を追いかける同級生を眺めており、また、リーノの甘い誘いにも乗った。子どもの彼にとってはリーノは強者であり、いじめっ子たちに勝つためには彼と仲良くすることが必要だからである。

一方で、アルベリを暴行するようにマンガニエッロに命令するときは、途端に「先生ではなく同志だ!」と高圧的になり、アルベリがいないことを心配する母親を横目に、彼を嘲るように「アルベリ!」と呼んでいた。

さらに、彼には他責思考(?)のようなものもある。

彼がアルベリを暴行するように命令したのは、アルベリが彼の母親をモルヒネ中毒にしていると思ったからである。また、これは考えすぎかもしれないが、クアドリ教授の自室での会話の際に、卒業論文のテーマをなぜ買えたのかと言う問いに対して、「先生が大学を辞めたから」と答えている。そのまま書くこともできるはずなのに。彼は、彼自身や身内に対して責任があると考えないのかもしれない。

 

イタロとは誰か。

イタロはマルチェロの友人の視覚障害者である。ラジオ番組では、ファシスト党のスポークスマンのようなことをしている。

彼は自分とマルチェロは「正常な人間」ではなく、特殊な人間だと考えており、そこに優越感のようなものを感じている。

彼個人についての説明は以上だが、彼の存在が示唆するものとはなんだろうか。

それは、作中でクアドリ教授が説明したプラトンの洞窟の比喩において、影を現実だと思い込んでいる人々のこと、つまりマルチェロと違って純粋なファシストである。

終盤でマルチェロがイタロに呼び出されて出かける前にジュリアと会話をするシーンでは、マルチェロがイタロの杖のような役割を果たしていたこと、彼が見たことをイタロに聞かせると、「まるで自分で見ているようだ」とイタロが言っていたことを語る。

また、イタロがマルチェロに「正常な人間」の説明として、「美人とすれ違ったときに、後ろを振り返り、自分と同じように美人を見た人が5,6人いることに安心する人間」という説明をしたが、視覚障害者であるにも関わらず、視覚的イメージを持って説明するのは、見えていないものを見えていると思っていることを表していると考えられなくもない。

(後天的に視力を失った可能性もなくはないが、作中ではファシズムに傾倒することを盲目に例えているであろうセリフが出てくるので、おそらくそうではない。)

 

 

マルチェロにとってクアドリ夫妻とは何か。

まず、クアドリ教授は、マルチェロファシズムへの傾倒から覚まさせる可能性を持った人物であるといえる。そのことは、夫妻を追って車を走らせている時に、マルチェロが「夢の中で目が見えなくなったが、クアドリ教授に手術をしてもらったおかげで目が見えるようになったのだ」と語ることからわかる。

また、マルチェロがクアドリ教授と教授の自室で洞窟の比喩についての会話をしているとき、マルチェロの影は教授が窓を開けたことによって消える。

さらに、ジュリアとアンナがダンスをするシーンでは、ダンスは男女がするものであると思っているマルチェロは「やめさせましょう」と教授に言うが、教授は「なぜ?」と言って、やめさせることはない。その後、その場にいた人々は皆で手をつなぎ楽しく踊りはじめるのだ。

 

それでは、マルチェロにとってアンナとは何か。

それは自由、自立の象徴だと考えられる。

アンナがジュリアにドレスを着せるシーンで、ジュリアが「侍女の真似事?」と聞くと、アンナは「やりたいからやるの」と答える。ジュリア一家は中産階級であるため、メイドがいるが、ジュリアは私的空間にメイドがいても気にせずにマルチェロと抱き合いキスができることから、メイドを一人の人間として扱っているとはいえない。ジュリアは階級制度を内面化している。

また、アンナはバレエスクールで教師をしており、自立した女性として描かれているように見える。

そもそも、初登場のシーンで、吠える犬に子どものように怯えるジュリアと、それを飼っているアンナとは対照的であるし、他のシーンでも夫であるマルチェロに子どものように甘える幼さがあるジュリアに対して、アンナはクアドリ教授と対等な関係性を築けているように見える。客人として現れたクレリチ夫妻をもてなし、煙草をふかしてソファーに腰かけ、夜の予定を決めるアンナには裁量が十分にある。

そのようなアンナに感化されたのか、ジュリアは女性同士で踊ることを素直に受け入れて楽しみ、それはホールにいた人々を巻き込むのだ。

 

ここで、なぜマルチェロがアンナに惹かれたのかについて考える。

二人きりの部屋で会話をするシーンで、マルチェロはアンナがある娼婦にそっくりだと言う。その娼婦とは、彼が暗殺の修正命令を受けるときに、マンガニエッロに抱かれながら「私頭がおかしいの!」(忘れた)と叫んだ娼婦のことだ。彼はその娼婦を抱きしめるわけだが、それは、おそらく「私は正常な人間ではない」と主張できない弱い自分とは違って、それを認める強さを持っているからではないだろうか。(娼婦を抱きしめるマルチェロは「時間を無駄にするな」と声をかけられる。弱さに目を向けることは無意味なことだとされている、と言いたいのかもしれない。)

そして、その後で出会った自由や自立を体現するアンナにも別の強さを見て、彼女に惹かれたのだろう。

マルチェロは、自身の異常性を認めるのではなく、アンナのような強さ、自由や自立に憧れ、それを自分のものにしたいと考えた。彼はアンナとの夜の逢瀬の際に、彼女に花売りから買った花をプレゼントする。花売りのお礼の歌の内容は革命を示唆するようなものであったことから、マルチェロの転向の意思を感じることができる。

 

しかしながら、マルチェロは転向することはなく、クアドリ夫妻は暗殺されてしまう。

暗殺のシーンで、教授は寄ってたかってナイフで刺される。突然道を塞いだ車のドライバーを「急病かもしれない」と心配するクアドリ教授の良心は裏切られ、圧倒的な暴力によって蹂躙されてしまうのだ。それをマルチェロは拳銃という力を手にしながら、暗殺を実行することもできなければ、助けることもできず、ただ車の窓から眺めることしかできない。彼は卑怯者になるのである。

 

マルチェロの何が問題か。彼はどうするべきだったか。

マルチェッロの問題とは、彼に内面や己がなかったことではないだろうか。

冒頭で、彼は「結婚すれば正常な人間になれるのではないか」と考えてジュリアと結婚した。しかし、「正常な人間」が結婚するのであって、結婚することで「正常な人間」になるのではない。

彼には内面がないため、外面を整えることでしか「正常な人間」に近づくことができない。(中華料理店での会食シーンで、「彼は笑わない」とジュリアが言っていたのも、彼にとって何が嬉しいのかどうか判断する基準がないからかもしれない。)

彼が外面にこだわるシーンは他にもある。暗殺用の拳銃を受け取った後で、ラウル(?)の部屋の入口付近でぎこちなく拳銃を構えたとき、帽子がないことに驚き慌てる。帽子にスーツ、拳銃が彼を「スパイ」たらしめるのであり、それを失えば彼は「正常な人間」からさらに遠ざかってしまうからである。

スパイとしても役割を彼が与えられたことも、彼の外面を偽ることに重なる部分がなくもない。

 

彼のかろうじて内面らしいものといえば、幼少期にリーノに犯されかけたトラウマである。彼はそれがあったために「正常な人間」ではなくなったと思っており、現在の彼の人生はそこを出発点としている。

しかしながら、体制崩壊後にイタロと会った夜、リーノが死んでいなかったことを知ったことで、彼を構成し、ある意味では支えていたトラウマすらも失ってしまう。

したがって、彼は内面を完全に失って発狂する。彼は「リーノがクアドリ夫妻を暗殺した! やつはホモだ!」「イタロはファシストだ!」と民衆に叫ぶが、前者の発言は明らかにおかしい。暗殺に加担したのはマルチェロだからだ。

しかし、これは彼に内面が存在しなくなったと考えると筋が通るかもしれない。内面がないということは、すなわち主体もなく、行為に対して責任を負うことができないからだ。

そうして彼は火、つまりは理想を失い、暗闇のなかでじっとすることしかできなくなったのである。

 

彼はどうするべきだったのだろう。

まず、彼は外面を偽ることをやめて、内面を作り上げるべきだったのではないだろうか。

結婚によって「正常な人間」になろうとしたが、ジュリア自身も過去に「異常」な性体験をしていたため、結局彼は異常さから逃れられなかった。

内面がなければ反省を活かすことができないので、人生が好転することもないのだ。

次に、彼は行動するべきだった。これは内面がない人間には難しいかもしれないが。

彼は、自分の意志で行動することはほとんどない。常識や他人から言われたことに従うだけだ。

最終的には命令ですら行動できなくなった。暗殺を実行することもなく、助けるわけでもなく、見ているだけだ。そして、体制崩壊後も自分の身の振り方を考えることもなく、仲間たちに合わせるだけだと言っている。

 

リーノのせいで以降の彼の人生のすべてが狂ってしまったと考えると、独力で行動する人間になることはできなかったかもしれない。すると、彼は「正常な人間」になれないことを運命づけられていたのだろうか。

いや、クアドリ夫妻との交流で、彼はわずかであるが変わりかけた。

となれば、「彼はどうするべきだったか」ではなく、「彼をどうするべきだったか」を問いとするべきなのかもしれない。

もし、彼の家庭が機能不全に陥ってなければ、彼はいずれトラウマに支えられた自身から脱却することができたかもしれないし、そもそもいじめられることがなければ、トラウマを植え付けられることもなかった。彼のような人間を作り上げたのは社会であり、彼を「正常な人間」にできる可能性があったのもまた社会なのではないだろうか。

 

まとめと改めての感想

この映画は、内面を持たない人間がどのように体制に取り込まれ、破滅していくのかを描いた作品であり、「正常な人間」を作るのは自己決定による行動と健全な人間との交流であると言っているような気がする。

マルチェロは哲学を専攻するも、全く内面を作り上げることはできなかった。詳しくは描かれていないが、クアドリ教授に覚えられていなかったことから交流はなかったのだろう。また、「正常な人間ではない」という自己認識に囚われすぎていたような気もする(トラウマなので仕方がないことだが)。

認識のみで自分がどのような人間かと定義してしまうのはおそらくいいことではない。自分を変えるための行動は起こせずに、むしろ自分の首を絞めていくだけではないかと思う。

例えば、「恋人がいない自分は以上なのだ」と言う人をしばしば見かける。また、ネット上で「異常独身男性」などという言葉で自虐をする人たちもいる。

おそらく、彼らは具体的な他者からそれを言われたわけではなく、他者と比較して自ら烙印を押している。

そうして作り上げられた自己認識を拭い去るのは容易なことではない。比較元であるはずの他者から「あなたはそんな人間ではない」と言われても、納得することはできず、どんどんしようと思うことは減っていき、自ら決めた枠の中にはまり込んでいく。

その枠から出るためには、実際に行動し、比較元である「誰か」がどこにもいないことを知ることに加え、自分の行動の軌跡によって、自己認識を変革する以外にないのではないだろうか。他者と交流すれば、マルチェロにとってのクアドリ教授のように、蒙を啓いてくれる人物に出会えるかもしれないし、自分の足跡を振り返ることで、自分の変化に気づき、自己認識を改めることもできるかもしれない。

自己認識は出発点を明確にするうえで重要ではあるが、そこにとどまり続けて、行動を限定するのは良くないことである。それを各人がやることによって、階級や独裁体制が出来上がっていく、というのも大げさなことではないのかもしれない。

 

 

僕自身の話をすれば、どちらかといえば行動よりも認識を優先しがちで、それゆえに大事なものを取りこぼしている部分がある気がしている。今回、この映画を観たことによって、それを少し反省しようと思った。