熱狂が怖い

熱狂が怖い。

スポーツイベントで歓声をあげたり、敗北で涙を流したりするファンの映像を観ると毎回思う。

彼らの巨大な感情のうねりが怖い。

カッと見開かれ、爛々と輝くあの目も怖い。僕とは全く違うルールに支配されているような気がする。

「自分と何の関わりもない人間の勝利や敗北に、なぜそこまで入れ込めるのか」とも思っている。

彼らを馬鹿にはしているわけではない。僕には理解できないという話であって、そういうもので一緒になって盛り上がれたらいいのにな、と思うときもある。けれども、自分が持ち合わせていない共感力の高さや、得体の知れない巨大な感情が怖い、という話だ。

 

こうした熱狂は、僕が勝手に怖がっているだけで、そこまで害があるものではない。

自分の生活を豊かにし、また、そのエネルギーを他人に与えることもあるからだ。

本当に怖いのは、「熱狂」というより、「集団心理」とか「群集心理」みたいなものかもしれない。

同じような感情を持った人々が集まることで、感情が増幅し、それに飲み込まれ、冷静な判断ができなくなり、規範意識や倫理観が著しく低下することが怖い。

最近でいえば、阪神が優勝して道頓堀に飛び込む、とか。

まあ、これはだいたい自己責任で済むので、他人に迷惑をかけることはあっても、他人を傷つけることまではしていない。

他人を傷つけた例を挙げると、数年前の渋谷のハロウィンで軽トラックを転がした事件や、Jリーグのサッカーファンによる暴動などだ。これは他人を傷つけるので、はっきり有害だといえる。

この二つの事件が起きたのは、それぞれ「楽しい」「怒り」といった感情が大勢に伝染したからであろう。

 

他には「恐怖」によるものなんかもある。

先日、出町座で『福田村事件』という映画を観た。

これは千葉県の福田村という場所で実際に起きた、村の自警団によって香川県から来た行商人一行15人のうち9人が殺された事件である。関東大震災の直後、「日本人からひどい扱いを受けている朝鮮人が、恨みから、混乱に乗じて日本人を襲ったり、井戸に毒を入れたりしている」というようなデマが流れた。そこで自警団が各自治体で組織されていたとき、薬を売りに全国を回っていた行商人一行が福田村にやってきた。彼らの持ち物や聞きなれない方言から、村人は彼らを朝鮮人だと思い込み、パニックを起こして、ついに彼らを次々と殺してしまうのである。

(余談:映画自体の出来はそこそこだった。観に行ってそこまで損はないと思うが、別に得もない程度の出来だ。「これいるか?」と思うようなラブシーンがある。また、行商人一行が殺されるシーンは映像の惨さと音の大きさもあって、かなりのストレスを感じる人もいるかもしれないので、ストレスに弱い人は観ない方がいいと思った。)

 

行商人たちを囲み、「鮮人だ! やってしまえ!」とわめく村人たちがいる中、他の村人を止めようとした人たちもいた。(実際の事件でもいたのかどうかは知らない。)こういう人間は、よく言えば周りに流されないが、日常では共感力が低いのかもしれないなあ、と思いながら観ていた。

 

ここまでの事例は大人数によるものだが、少人数のものなら日常生活にも溢れている。

例えば、飲食店で話が盛り上がってしまい、周りのお客さんが「うるさいなあ」と思うくらいに声が大きくなることとか。これも「楽しい」という感情に飲み込まれて、社会一般の常識や節度というものを意識しなくなる状態だろう。

 

少し前にこんなことがあった。

夏休みに、友人二人と明石のジュンク堂に行った時のことである。

僕以外の二人は棚を眺めながら本についての話をしていた。僕は本屋で話すのが嫌いなので、頷き程度で会話には参加しなかった。

初めのうちは二人の声はひそひそとしたもので、他の客のことを考えたものだったが、だんだんと大きくなってきた。僕が不機嫌になってきていることも気づいていたようだが、それも気にすることなく笑っていたので、その時だけは二人への好感度が急落した。

普段は他人の事を考えることのできる人間だと思うのだが、そのような人間でも、群れれば自分たちのこと以外を気にしなくなってしまうのが、とても怖かった。

 

ここまで怖い怖いと言っていると、もしかしたら僕が彼らを劣った人間だと思っているように見えるかもしれないが、今は全くそんなことはない。むしろ、僕のほうが劣っているのかもしれない、と最近では思っている。

普段意識することはないが、社会は暗黙のルールに支配された無数のゲームによって構成されている。その個別のゲームのルールにうまく乗れない、どこまでいっても「個」にしかなれない人間がごちゃごちゃ言っているだけのことだ、と思うからだ。

ルールと言うのは、例えば、「大人数での食事の際は、普段の会話よりも大きな声で話す」みたいなことだ。大きな声で話さないと、そもそも会話がしづらい。また、声が小さかったり、豊かな感情表現をしていなかったりすると、楽しんでいないように見えて、楽しい空気が壊れてしまう。「みんなで楽しく食事をする」というゲームの目的を達成するために、ルールが敷かれているのだ。

まともな人間であれば、特に意識をすることもなく、その場のルールに則った振る舞いをすることができるだろう。

しかし、「個」の人間は、いらないことを考えてしまう。「でも、普段の自分はそんなに大きな声で話さないしな……」みたいなことだ。

ジェットコースターに乗るときは笑顔で叫ぶのがルールで、ドッジボールをするときは必死になってボールを避けたり投げたりするのがルールなのに、「個」の人間は常に幻像の「自分」に監視されていて、そこから外れるような行動はできなくなる。

一般的な言葉を使えば「ノリが悪い」。何に乗れないのかと言えば、その場のルールにである。そして、人々を支配するそのルールが、何か得体の知れない化け物のように見えて、それを恐れているのである。

 

所詮勘違いでしかないのだが、不変の「自分」というものがあって、あらゆる状況下でそれを保たなければならないのであり、それができる人間こそが自律した人間なのだ、と思っていた時期があった。

その時は、テレビに映った「他人の勝利に一喜一憂する馬鹿なファン」や、「ハロウィンで騒ぐ馬鹿な若者」に苛立ちを覚えて、「こういう人間が戦争を起こすんだろうなあ」と半分本気で見下していた。そういう人間がいなくなればいいのではないか、自律した個人が作る冷たい社会こそが理想郷なのではないか、みたいなことも考えていた。

しかし、今はそうではない。

もしも僕みたいな人間ばかりになったら、不活発さゆえに人類は全く発展しなくなるか、限りなく発展のスピードが落ちるだろう。また、共同体意識も弱いので、気に入らない人間を静かに排除する社会になるかもしれない。さらに、間違った方向に社会が進んだとしても、義憤によって結束し、政治運動を起こして正すことも出来なさそうだ。そもそも、社会らしい社会を構築できないかもしれない。「ただ、そこにいるだけ」になるかもしれない。

逆に、彼らのような人間ばかりになっても、争いが絶えない世界になるかもしれない。

結局、どちらかだけになるのは良くなくて、多数の熱狂できる人間と、少数の僕みたいな人間がいる、くらいがバランスとしてちょうどいいのだろう、と思っている。

せいぜい、「ノリが悪いやつ」の一人として、社会の隅っこで生きていくしかない。